―好青年2― そのまま、見知らぬ朝が来た。 天幕を開けると、眩しい日の光が目を突き刺す。 幸村は、乾いた目をぱちくりさせながら、空を覆う朝焼けに見とれていた。 昨夜の…あれは一体何だったのだろう。 瞼を閉じれば、すぐそこまで迫った趙雲の顔が思い起こされてしまう。 瞼の裏の趙雲が目を細めて指先を伸ばす度、幸村の全身が総毛立ち、胸の奥底にじわりと鈍い痛みが広がる。 もう一度その指先が、ほんの爪の先でも触れてしまえば、幸村の中の大切にしていた何かが、がらがらと音を立てて崩れていきそうだった。 幸村は雑念を掻き消すように、水を張った桶に顔を突っ伏した。 つんと冷えきった水面が、答えの見えない不確かな思考をさらっていく。 「……ぷはっ…」 息も絶え絶えに幸村が水面から顔を上げると、頬を包むように布が手渡された。 「ああ、ありがとう」 礼もそこそこに、幸村は柔らかな布地に顔を埋める。 気が利く者もいるのだなと、ふと布の合間から兵士の顔を盗み見ると、その者としっかり目が合ってしまった。 「趙雲殿…っ!」 「昨晩は、よく眠れたかな?」 幸村がぽかんと口を開けている間に、趙雲はそら貸してみろと言わんばかりに、その手から布を奪うと、ごしごしと幸村の顔を拭き始める。 「ちょっ…趙雲殿…っ」 普段、槍を握る手はごつごつとしていて硬い。 ごしごしと、頬を濡らした水滴を拭き取る手は、無遠慮に触れてきて、ほんの少し痛かった。 布地で、つるっと最後に顎を撫でられて、ぱっと面を上げると、そこには朝日を浴びて、一段と輝く趙雲の笑顔があった。 「少し目が赤いようだが…?」 「え?」 急に顔をぐっと寄せた趙雲が、幸村の瞳を覗き込む。 寝付けなくて赤く血走った瞳も、その奥にある不透明な戸惑いも見透かされたくなくて、幸村はぷいと顔を逸らしてしまった。 無意識下の反応とは言え、あんまりな態度をとってしまった。 恐る恐る視線を彷徨わせると、趙雲は呑気な声で、武者震いで寝付けなかったのかな、と尋ねてきた。 幸村は言葉を選んで、そんなところです、とその場を濁した。 あとは何を話たか、覚えていない。 昨夜の趙雲の陰をどっか隅っこに置いて、その晴れ渡る青空のような笑顔に流されるまま流されていけば、心が軽くなる。 適当に相槌を打って、頃合に笑って…。 気がつけば、趙雲はいなくなっていた。 幸村は深い溜め息をひとつ吐いた。 あれはただの親愛の情のようなもので、ちょっとした戯れだったのだ。 自分は今までそんな目にあったことはなかったが、男しかいない戦場ではよくあることらしい。 だからといって、趙雲殿がそんな方だとは信じられないが…。 だからあれは、こちらの反応を思って、からかったのだ。 幸村は急に、気恥ずかしくなって、なるべく早く昨晩のことを忘れようと、傍に立掛けてあった槍を取り、宙を目掛けて思い切り振り上げた。 こつこつと床を鳴らし、颯爽と風を切る一人の男が、広く長いこの神殿の廊下を闊歩している。 棚引く群青のマントと艶やかな黒髪を持つその風貌は、一介の貴公子そのものなのだが、惜しいかな、丹精な顔立ちを斜に歪めて、その眉間には深々と皺を刻み付けていた。 「最近、やけに忙しそうだな、曹丕」 曹丕と呼ばれた魏軍の若き後継者は、背後から忍び寄る聞き慣れた声音に、短く息を吐くと渋々足を止めた。 「遠呂智の…いや、あの女狐の忠実な下僕も大変だな」 「…そういうお前も、同じ穴のムジナだろう、三成」 いくつか建ち並ぶ柱の一本に背を預け、切れ長の目を覗かせた三成は、ろくに瞬きもせず冷ややかな視線を、曹丕に向けていた。 尖った靴の先が曹丕を捉え、三成は一歩一歩、歩を進める。 「今度は何を押しつけられたんだ?」 「相変わらず、反乱軍の殲滅だ。 以前、趙子龍が地下牢を抜け出したことがあったろう? 奴が仲間を集めて、あちこちで乱を起こしているらしい」 「また、厄介な奴を逃したな。 せいぜい出る杭は早めに打っておけ」 ふと曹丕を見やると、非難めいた物言いを気に留めるでもなく、口角を持ち上げ、薄い唇に何やら含みを持たせていた。 その形相はどこか気味が悪い。 何頭の試案があるのだろう。 三成はわざとらしく乾いた溜め息をひとつつくと、踵を返し曹丕に背を向けた。 曹丕は、ふとあることを思い出した。 「真田幸村」 その薄っぺらな唇を動かして、曹丕は確かにそう言った。 一瞬、三成の身体の隅々、に熱い電撃が走る。 それは足の指先、髪の一本一本にいたるまで、身体中を駆け巡った。 直隠しにしていた胸の薄皮を、ぷすっと針で刺されたかのよう。 綺麗で汚い想いの雫が、つーっと自然に溢れ始める。 そんな三成の表には出さぬ小さな動揺を、知ってか知らずか、なおも曹丕は続けた。 「趙子龍のところにいる真田幸村…、あれはお前がいた国から来たのだろう?」 「…幸村が……」 自然と胸の高鳴りが早くなる。 趙子龍……あの男の元に幸村が…? 三成の脳裏に、懐かしき友の顔が浮かび上がる。 日だまりのように柔らかな、愛しい笑顔…。 三成の心の中では、次から次へと幸村への安らかな想いが溢れてくる。 三成は幸村のことを、今の今まで忘れていた。 この新しく創造された世界で、皆が散り散りになり、行方どころか生死もわからぬと知ったとき、三成は幸村のことを真っ先に忘れた。 そうしなければ、生きていけなかった。 幸村のいない世界など、とうに………。 「どうした?」 俯いて口を噤んだきりそのままの三成を、曹丕は不審に思った。 暫く思案した後、三成はゆっくりと面構えを正し、意を決した。 「その戦、俺も出よう」 一切揺れることのない三成の瞳を見、曹丕は目を丸くする。 「物臭なお前がな、…そこまで使える男なのか?」 「………幸村を使える使えないで、判断したことはない」 「ふっ、殊勝な心掛けだ」 「作戦が決まり次第、俺もそれに従おう」 そう早口に捲し立てあげると、三成はさっさと足早にその場を後にした。 会いたい…会ってどうするでもなく…。 三成の念頭には、ただそれだけしか思い描けなかった。 三成が立ち去った後、一人残された曹丕は、急な三成の豹変ぶりに、くつくつと腹を抑えて笑った。 曹丕は、一度牢に繋がれた趙雲を一目見て三成が「…幸村」と零したのを、隣りで聞いている。 その時は、それが人の名だというどころか、それが個体を表す言葉ということすら、わからなかった。 そしてそれを、敢えて気にすることもなかった。 たまたま伝令から知らせが入った。 それを教えてやろうという気になったのは、単なる気紛れだ。 それがこうも上手くいき、三成にあんな表情をさせるとは…。 あの三成の心を一瞬にして溶かす、真田幸村と言う男に、曹丕は少なからず興味を抱いた。 砂埃が宙を舞う。 流砂を含んだ乾いた風と、燃えたぎる心が身体をどんどん枯渇させていく。 早く己の力を試したい、どこまでいけるのかを試したい、武士なら誰もが抱いてしまう、本当は抱いてはいけないはずの欲望に囚われてしまう。 逸る気持ちを落ち着けるため、幸村はひたすら槍を振るった。 切っ先が空を切る、汗の飛沫が弾け飛ぶ。 心の奥底が叫んでいる、もっと、もっと―――。 「…村殿……幸村殿っ」 力強く振り下ろした槍先を、不意にもう一方から差し出された槍に絡みとられ、槍が手元から離れた。 槍はくるくると宙を飛び上がり、頂点を突くと、切っ先が反転し、そのまま地面に突き刺さった。 そこで幸村はようやく我に返った。 「凄まじい槍さばきだな」 目を点にして呼吸を整える幸村の前で、趙雲が感嘆の声を上げた。 「いえ、私などまだまだ…そんなことより、お怪我は? 趙雲殿に、お怪我はございませぬかっ?」 わたわたと慌てふためく幸村に、趙雲は首を振って微笑んでみせた。 「ああ、私は何ともない。 しかし、威勢がいいのは良いことなのだが、戦の前に力を出し切られては困る。 少し休んだらいかが?」 「気が…静まらぬもので…」 趙雲は身を屈め、地面に横たわる槍を拾うと、幸村に差し出した。 「何とも頼もしいな。 真田が槍、楽しみにしている」 「ありがとうございます」 短く礼をして、幸村がその槍をしかと手の中に収めると、趙雲はその横を擦り抜けて行った。 幸村がその後を追う。 「あと半刻ほどしたら、打って出ようと思っているから、そのつもりで」 「はい」 「前線では、我が軍が押しているらしい。 我らには勢いがある。 決して勝てぬ戦ではない」 一息吐くと、趙雲はもう一度大きく息を吸い込んだ。 「否! 劉備殿をお救いするまで、我々は勝ち続けならなければならないのだ!」 前を行く趙雲の足が、どんどん速くなる。 君主である劉備を想う気持ちが奮い立たせるのか、趙雲の身体から発せられる熱い気が、辺りに充満した。 屈強な趙雲の肩が、小刻みに揺れている。 今、蜀という一国の命運が、遠呂智という途方もない悪鬼の前で、趙雲の双肩に伸し掛かっている。 その重みが、その厚みが、趙雲の身体を奮わせている。 そんな趙雲の後ろ姿を見て、幸村はこの御仁はやはり…と思った。 先の趙雲の陰は形を潜めて跡形もなく消え去り、敬意の念だけが残った。 壮大な意志を受け継ぎ、その重みに負けないよう必死で踏ん張っている男を、幸村はもう一人知っている。 幸村はその男を、命を賭して守り抜いた。 彼の姿が、今の趙雲に重なる。 私は劉備殿がどのような人物なのかを知らない。 けれども、劉備殿を必死で取り戻そうとする趙雲殿の奮闘を知っている。 今はただ槍を持って、趙雲殿を守ろう。 己の中の大事なものを守るために…―――。 「幸村殿」 急に名を呼ばれ、その方向に向き直ると、趙雲は鐙に足をかけ、大きな駿馬の上に跨がっていた。 背には逆光を背負い、趙雲の凛々しい顔立ちを、より一層逞しく涼やかにしている。 その姿は物語に出て来る英雄像さながらのようで、幸村もつい息を飲んでしまった。 幸村も傍に用意された馬に脚をかけ、騎乗する。 隣りにいるこの武人と、戦場を駆け巡るのかと思うと、自然と胸が踊る。 二人はどちらかともなく目を合わせ、頷き合う。 「行こう…!」 趙雲の力強い声が上がったときには、幸村も趙雲も目一杯大地を蹴っていた。 |
まだまだ序章・・・って感じでしょうか? ようやく三成殿が現れました! イケイケ趙雲の行動は謎です。 |
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