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そのまま、見知らぬ朝が来た。
天幕を開けると、眩しい日の光が目を突き刺す。
幸村は、乾いた目をぱちくりさせながら、空を覆う朝焼けに見とれていた。
昨夜の…あれは一体何だったのだろう。
瞼を閉じれば、すぐそこまで迫った趙雲の顔が思い起こされてしまう。
瞼の裏の趙雲が目を細めて指先を伸ばす度、幸村の全身が総毛立ち、胸の奥底にじわりと鈍い痛みが広がる。
もう一度その指先が、ほんの爪の先でも触れてしまえば、幸村の中の大切にしていた何かが、がらがらと音を立てて崩れていきそうだった。
幸村は雑念を掻き消すように、水を張った桶に顔を突っ伏した。
つんと冷えきった水面が、答えの見えない不確かな思考をさらっていく。
「……ぷはっ…」
息も絶え絶えに幸村が水面から顔を上げると、頬を包むように布が手渡された。
「ああ、ありがとう」
礼もそこそこに、幸村は柔らかな布地に顔を埋める。
気が利く者もいるのだなと、ふと布の合間から兵士の顔を盗み見ると、その者としっかり目が合ってしまった。
「趙雲殿…っ!」
「昨晩は、よく眠れたかな?」
幸村がぽかんと口を開けている間に、趙雲はそら貸してみろと言わんばかりに、その手から布を奪うと、ごしごしと幸村の顔を拭き始める。
「ちょっ…趙雲殿…っ」
普段、槍を握る手はごつごつとしていて硬い。
ごしごしと、頬を濡らした水滴を拭き取る手は、無遠慮に触れてきて、ほんの少し痛かった。
布地で、つるっと最後に顎を撫でられて、ぱっと面を上げると、そこには朝日を浴びて、一段と輝く趙雲の笑顔があった。
「少し目が赤いようだが…?」
「え?」
急に顔をぐっと寄せた趙雲が、幸村の瞳を覗き込む。
寝付けなくて赤く血走った瞳も、その奥にある不透明な戸惑いも見透かされたくなくて、幸村はぷいと顔を逸らしてしまった。
無意識下の反応とは言え、あんまりな態度をとってしまった。
恐る恐る視線を彷徨わせると、趙雲は呑気な声で、武者震いで寝付けなかったのかな、と尋ねてきた。
幸村は言葉を選んで、そんなところです、とその場を濁した。

あとは何を話たか、覚えていない。
昨夜の趙雲の陰をどっか隅っこに置いて、その晴れ渡る青空のような笑顔に流されるまま流されていけば、心が軽くなる。
適当に相槌を打って、頃合に笑って…。
気がつけば、趙雲はいなくなっていた。
幸村は深い溜め息をひとつ吐いた。
あれはただの親愛の情のようなもので、ちょっとした戯れだったのだ。
自分は今までそんな目にあったことはなかったが、男しかいない戦場ではよくあることらしい。
だからといって、趙雲殿がそんな方だとは信じられないが…。
だからあれは、こちらの反応を思って、からかったのだ。
幸村は急に、気恥ずかしくなって、なるべく早く昨晩のことを忘れようと、傍に立掛けてあった槍を取り、宙を目掛けて思い切り振り上げた。





こつこつと床を鳴らし、颯爽と風を切る一人の男が、広く長いこの神殿の廊下を闊歩している。
棚引く群青のマントと艶やかな黒髪を持つその風貌は、一介の貴公子そのものなのだが、惜しいかな、丹精な顔立ちを斜に歪めて、その眉間には深々と皺を刻み付けていた。
「最近、やけに忙しそうだな、曹丕」
曹丕と呼ばれた魏軍の若き後継者は、背後から忍び寄る聞き慣れた声音に、短く息を吐くと渋々足を止めた。
「遠呂智の…いや、あの女狐の忠実な下僕も大変だな」
「…そういうお前も、同じ穴のムジナだろう、三成」
いくつか建ち並ぶ柱の一本に背を預け、切れ長の目を覗かせた三成は、ろくに瞬きもせず冷ややかな視線を、曹丕に向けていた。
尖った靴の先が曹丕を捉え、三成は一歩一歩、歩を進める。
「今度は何を押しつけられたんだ?」
「相変わらず、反乱軍の殲滅だ。
 以前、趙子龍が地下牢を抜け出したことがあったろう?
 奴が仲間を集めて、あちこちで乱を起こしているらしい」
「また、厄介な奴を逃したな。
 せいぜい出る杭は早めに打っておけ」
ふと曹丕を見やると、非難めいた物言いを気に留めるでもなく、口角を持ち上げ、薄い唇に何やら含みを持たせていた。
その形相はどこか気味が悪い。
何頭の試案があるのだろう。
三成はわざとらしく乾いた溜め息をひとつつくと、踵を返し曹丕に背を向けた。
曹丕は、ふとあることを思い出した。



「真田幸村」



その薄っぺらな唇を動かして、曹丕は確かにそう言った。
一瞬、三成の身体の隅々、に熱い電撃が走る。
それは足の指先、髪の一本一本にいたるまで、身体中を駆け巡った。
直隠しにしていた胸の薄皮を、ぷすっと針で刺されたかのよう。
綺麗で汚い想いの雫が、つーっと自然に溢れ始める。
そんな三成の表には出さぬ小さな動揺を、知ってか知らずか、なおも曹丕は続けた。
「趙子龍のところにいる真田幸村…、あれはお前がいた国から来たのだろう?」
「…幸村が……」
自然と胸の高鳴りが早くなる。

趙子龍……あの男の元に幸村が…?
三成の脳裏に、懐かしき友の顔が浮かび上がる。
日だまりのように柔らかな、愛しい笑顔…。
三成の心の中では、次から次へと幸村への安らかな想いが溢れてくる。
三成は幸村のことを、今の今まで忘れていた。
この新しく創造された世界で、皆が散り散りになり、行方どころか生死もわからぬと知ったとき、三成は幸村のことを真っ先に忘れた。
そうしなければ、生きていけなかった。

幸村のいない世界など、とうに………。

「どうした?」
俯いて口を噤んだきりそのままの三成を、曹丕は不審に思った。
暫く思案した後、三成はゆっくりと面構えを正し、意を決した。
「その戦、俺も出よう」
一切揺れることのない三成の瞳を見、曹丕は目を丸くする。
「物臭なお前がな、…そこまで使える男なのか?」
「………幸村を使える使えないで、判断したことはない」
「ふっ、殊勝な心掛けだ」
「作戦が決まり次第、俺もそれに従おう」
そう早口に捲し立てあげると、三成はさっさと足早にその場を後にした。

会いたい…会ってどうするでもなく…。

三成の念頭には、ただそれだけしか思い描けなかった。



三成が立ち去った後、一人残された曹丕は、急な三成の豹変ぶりに、くつくつと腹を抑えて笑った。
曹丕は、一度牢に繋がれた趙雲を一目見て三成が「…幸村」と零したのを、隣りで聞いている。
その時は、それが人の名だというどころか、それが個体を表す言葉ということすら、わからなかった。
そしてそれを、敢えて気にすることもなかった。
たまたま伝令から知らせが入った。
それを教えてやろうという気になったのは、単なる気紛れだ。
それがこうも上手くいき、三成にあんな表情をさせるとは…。
あの三成の心を一瞬にして溶かす、真田幸村と言う男に、曹丕は少なからず興味を抱いた。





砂埃が宙を舞う。
流砂を含んだ乾いた風と、燃えたぎる心が身体をどんどん枯渇させていく。
早く己の力を試したい、どこまでいけるのかを試したい、武士なら誰もが抱いてしまう、本当は抱いてはいけないはずの欲望に囚われてしまう。
逸る気持ちを落ち着けるため、幸村はひたすら槍を振るった。
切っ先が空を切る、汗の飛沫が弾け飛ぶ。
心の奥底が叫んでいる、もっと、もっと―――。

「…村殿……幸村殿っ」
力強く振り下ろした槍先を、不意にもう一方から差し出された槍に絡みとられ、槍が手元から離れた。
槍はくるくると宙を飛び上がり、頂点を突くと、切っ先が反転し、そのまま地面に突き刺さった。
そこで幸村はようやく我に返った。
「凄まじい槍さばきだな」
目を点にして呼吸を整える幸村の前で、趙雲が感嘆の声を上げた。
「いえ、私などまだまだ…そんなことより、お怪我は?
 趙雲殿に、お怪我はございませぬかっ?」
わたわたと慌てふためく幸村に、趙雲は首を振って微笑んでみせた。
「ああ、私は何ともない。
 しかし、威勢がいいのは良いことなのだが、戦の前に力を出し切られては困る。
 少し休んだらいかが?」
「気が…静まらぬもので…」
趙雲は身を屈め、地面に横たわる槍を拾うと、幸村に差し出した。
「何とも頼もしいな。
 真田が槍、楽しみにしている」
「ありがとうございます」
短く礼をして、幸村がその槍をしかと手の中に収めると、趙雲はその横を擦り抜けて行った。
幸村がその後を追う。
「あと半刻ほどしたら、打って出ようと思っているから、そのつもりで」
「はい」
「前線では、我が軍が押しているらしい。
 我らには勢いがある。
 決して勝てぬ戦ではない」
一息吐くと、趙雲はもう一度大きく息を吸い込んだ。
「否!
 劉備殿をお救いするまで、我々は勝ち続けならなければならないのだ!」
前を行く趙雲の足が、どんどん速くなる。
君主である劉備を想う気持ちが奮い立たせるのか、趙雲の身体から発せられる熱い気が、辺りに充満した。
屈強な趙雲の肩が、小刻みに揺れている。
今、蜀という一国の命運が、遠呂智という途方もない悪鬼の前で、趙雲の双肩に伸し掛かっている。
その重みが、その厚みが、趙雲の身体を奮わせている。
そんな趙雲の後ろ姿を見て、幸村はこの御仁はやはり…と思った。
先の趙雲の陰は形を潜めて跡形もなく消え去り、敬意の念だけが残った。
壮大な意志を受け継ぎ、その重みに負けないよう必死で踏ん張っている男を、幸村はもう一人知っている。
幸村はその男を、命を賭して守り抜いた。
彼の姿が、今の趙雲に重なる。
私は劉備殿がどのような人物なのかを知らない。
けれども、劉備殿を必死で取り戻そうとする趙雲殿の奮闘を知っている。
今はただ槍を持って、趙雲殿を守ろう。

己の中の大事なものを守るために…―――。



「幸村殿」
急に名を呼ばれ、その方向に向き直ると、趙雲は鐙に足をかけ、大きな駿馬の上に跨がっていた。
背には逆光を背負い、趙雲の凛々しい顔立ちを、より一層逞しく涼やかにしている。
その姿は物語に出て来る英雄像さながらのようで、幸村もつい息を飲んでしまった。
幸村も傍に用意された馬に脚をかけ、騎乗する。
隣りにいるこの武人と、戦場を駆け巡るのかと思うと、自然と胸が踊る。
二人はどちらかともなく目を合わせ、頷き合う。
「行こう…!」
趙雲の力強い声が上がったときには、幸村も趙雲も目一杯大地を蹴っていた。

まだまだ序章・・・って感じでしょうか?
ようやく三成殿が現れました!
イケイケ趙雲の行動は謎です。
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